自然は共同臓器

3月6日~14日にかけて、浜田市龍泉寺様の御一行と仏教誕生の地インドへ行ってまいりました。
インドにはお釈迦様の聖地が沢山ありますが、今回はお覚りを開かれた ブッダガヤ・初転法輪の地 サールナート・法華経を説かれたお山 霊鷲山 ラージギル にお参りをさせていただき、ガンジス川では沐浴もさせていただきました。

 各聖地では、世界各国からの仏教徒が集まり、各々の信仰の方法でお参りをされておりました。我々も日蓮宗の法式に則って、法華経・お題目を各聖地でお唱えさせていただきました。中でも、法華経を説かれたお山 霊鷲山 での暁天朝勤では2500年以上の時を越え、法華経をお唱え出来ているということに感極まりました。共に参拝させていただいた僧侶の方々と、この先も仏教・法華経の教えが広まっていくようお祈りし、朝勤後には、お題目をお唱えしながら、朝日を拝ませていただきました。

 朝日は何処で見ても感動ですが、霊鷲山での朝日はまた格別でした。生命の源である太陽が与えてくださる、みなぎるパワーを感じながら、「我々は生きているのではなく、生かされているのだ。」と改めて痛感いたしました。

 インドでは感動も沢山ありましたが、その反面、悲しい思いもありました。
 沢山の街に行かせていただきましたが、どの街でもゴミが大量に捨ててありました。
 自然に生かされている感動と共に、我々人間が自然を汚しているという悲しみに襲われる旅でした。もちろん、インドだけではなく、綺麗と言われる日本にもゴミが散乱している場所は沢山あります。

 法華経の方便品には「諸法実相(全ての物の真実の有様)」を「十如是」で説明され ております。今回は詳しい説明は省略しますが、「全ての物は姿形、性質、能力があり因果の先に報いがある。」十如是で大切なのは、因果の間に「縁」があることです。沢山の「縁」がなければ全ての物は存在意義が無くなってしまいます。

 そして何より我々人間は太陽・大地を始め多くの自然が無ければ生きることすら出来ません。

 八十年代に超能力者としてマスメディアに取り上げられていた、清田益章さんが以前、配信動画にて次のように言われておりました。

 「体内で意識をせずとも常に働き、自分を生かしてくれている臓器を「内臓」と言うのであれば、体外で常に自分を生かしてくれている太陽や大地も自分の一部である「外臓」だと思い感謝をし、大切にしなければならない」

 自分の臓器は恩恵も痛みも自分だけの事ですが、太陽や大地・全ての自然は、痛みは感じなくとも、生きとし生ける者全てが共有し、恩恵をいただく「共同臓器」なのです。

 自身の身体の健康に気を使うのと同じように 、我々は身体の外で生かしてくれている沢山の自然に感謝をし、もっと気を配らなくてはなりません。なぜなら、自然には我々だけでなく、これから先の未来の子ども達の命も養っていただくからです。そして、太陽という臓器を共有する者同士だと思えば、他者との関り合いの中でも今まで以上に「慈しみの心(愛)」を持って接し合う事が出来るのではないでしょうか。

 今回インドに行き、我々は沢山の「縁」によって生かされているのだと改めて再確認させていただきましたので、清田さんの言葉をお伝えさせていただきました。 

 生かしてくださっている自然を大切にしながら、太陽を始めとする自然(外臓)を共有する生きとし生ける者が、 「慈しみの心(愛)」を持って接し合える世の中になることを祈りながら、インド団参のご報告とさせていただきます。   

                  合掌  

初転法輪の地 サールナート
ガンジス川 沐浴
覚りを開かれた地 ブッダガヤ 大塔
法華経が説かれた地 霊鷲山 暁天朝勤

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