~縁起~


加藤清正公に

憧れた武将が建立したお寺

天正8〜9年(1580〜1581年)創建。開基は藤井宗久と義兄伍井正信。益田20代元祥の武将として征韓の役に出陣した藤井宗久が加藤清正の武士道に傾倒し、清正の信仰する日蓮宗を信仰。帰国後、義兄正信とともに妙法庵本堂を建立。
 

妙法寺は、元は妙法庵という小さな庵であった。雲州赤名村下赤名(飯石郡赤来町下赤名)にある妙法寺の別庵と伝えられている。開山は教蔵院日泉上人。妙法庵の本堂を建立し、妙法庵を妙法寺に改めるのに尽力したのは藤井甚右衛門宗久という益田元祥公の武将だった。宗久の祖は、下総国藤井荘から石見に移住した武家で、宗久はその十三代目にあたる。
 
宗久は文禄元年(1592年)4月、益田元祥公(第20代)の武将として、征韓の役に出陣し、従軍5カ年の後、慶長元年(1596年)2月凱旋した。出征中の宗久は、総大将の加藤清正公の風貌に大変あごがれ、特に清正公の武士的精神に傾倒していた。また、清正公が熱心に法華経を信仰していた点が、宗久にとって更に大きな魅力となった。
 
帰国した宗久は、日蓮宗に帰依する義兄伍井次右衛門正信の影響もあり、急激に信仰の熱度を高め、ついには妙法庵の本堂建立を発願したのである。
 
発願成就にあたり、宗久は七尾城主元祥公に寺地の寄進を懇望したところ、慶長7年(1602年)この願いが叶い、元祥公より4反7畔歩(約1,400坪)の寺地を賜った。こうして宗久と義兄正信は翌慶長8年(1603年)初冬、現在地に本堂建立の鍬入れを行い、11月に本堂が完成した。この時から妙法寺と号し、現在に至っている。
 
加藤清正公は没後神格化され、熊本県にも加藤神社があり、清正公が主神として祀られている。日蓮宗寺院でも、清正公を守護神として祀る風習があり、妙法寺本堂にも祀られている。神名は、清正公(せいしょうこう)大神祇。戦時の時代は武運長久、現在は勝負事、学業成就、事業繁栄、商売繁盛の神として広く信仰されている。
 
平成14年(2002年)には、妙法寺となって400年を迎えたが、この間、二度の火災(一度目は享保13年[1728年]の益田大火)に遭っており、寺宝らしきものが残っていないのが残念である。また、現在の本堂は、二度目の火災の後に明治2年に建てられたが、材料は医光寺(臨済宗)の解体された古いお堂(開山堂?)の材料を寄進していただいて建てられたものである。何故、宗派の違う寺院に寄進されたかは定かではないが、仏教で説かれる慈悲の心であることは確かである。

現在の住職は、教蔵院日泉より数えて35代目である。