地縛霊

 「地縛霊」という言葉を聞かれたことがありますでしょうか?
 これは字の如く、その場所に縛られて動けなくなってしまった霊のことを言うそうです。
 何故動けなくなってしまうのでしょうか。
 これは、生きているときには「執着」、亡くなってからは「未練」と言いますが、「思い」や「想い」が「重さ」となって動けなくなるそうです。

 誰かが亡くなられたとき、「浮かばれる」「浮かばれない」と表現することがありますが、これも「未練の重さ」によって浮かぶことが出来なくなってしまった「地縛霊」の事を言うそうです。
 「思」は「田」に「心」と書きます。昔はお米が通貨の役目を果たしていましたので、経済的なものに関するものは「思い」という漢字を使いました。 
 「想」は相手の「相」に「心」と書きますので、「人」の事に関するものは「想い」という漢字を使っているそうです。

 自身が亡くなってしまったとき、その場から動くことが出来なかった時は、この「未練」、「思い」や「想い」を一つ一つ無くしていくと、少しずつ地面から浮かび上がり、一定の高さまで上がるとスッと死後の世界、日蓮宗的に言えば霊山浄土(仏様の世界)へ行くことが出来るそうです。

 お釈迦様は死後の世界についての言及はされておりませんし、私自身も霊感が無いので、この真偽は分かりかねます。

 この話は、平成二十三年に亡くなられた小林正観さんという作家さんが、全国を歩き回りながら、人相を基に沢山の方々の相談を受けられる中で辿り着かれた結論だそうです。(おそらくですが霊感もお持ちだったようです。)

 死後の世界に言及されてないお釈迦様も、亡くなってから「未練」となる「執着」については、「生きているうちに無くしなさい。」という教えが沢山残っております。

 仏教で「三毒」といわれる
  ・ 貪 (貪りの心)
  ・ 瞋 (怒りの心)
  ・ 痴 (愚痴の心)
 この三つの心は多くの場合「執着心」が根本にあります。
 あれもこれも欲しいという物への執着。怒りや愚痴は、自分の考えを曲げることが出来ない、寛容性を持てない、他者の価値観や行動を受け容れることが出来ないという、自分の考え方への執着が根底にあります。

 仏教徒の修行期間であるお彼岸のご回向では、生きとし生ける者がこの三毒の心から離れるよう、お祈りいたします。

 死後どうなるかは分かりません。しかし、生きていく上で大切な事はお釈迦様がしっかりとお示しくださっています。

 亡くなってから「未練」を無くしていくという事も、いざという時のために知っておいて損はありません。
 しかしそれよりも、「生きている今」を大切にし、お題目をお唱えしながら一つ一つの「執着」や「三毒」を取り除いていくことの方が、人生においてとても価値のあることだと思います。この事を頭の片隅に置きながら、お彼岸や日々の信行を続けて参りましょうう。         

合掌  

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